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2010年7月17日 (土)

ありがとうございました。感謝!!

鹿児島県鹿屋市、安心・安全・快適な歯科医療空間づくりを目指す安楽歯科院長ブログ「夢があるから・・・ v(^0^)v」へようこそ!

明日からの連休を使って、診療所のレントゲン設備等を一新することになりました。

今日で引退する器械たちです。

Dscn0163パノラマX線撮影機、まるまる16年働いていただきました。 

平成6年、当時はまだパノラマX線が無い診療所も多かったのですが、口腔外科の診断には不可欠と頑張って購入しました。

平成15年に今の診療所に一緒に引っ越してきました。

Dscn0161 自現器、手のかかるやつでしたが・・・、こちらも16年!

自動現像器も機嫌が悪くなると、キーキー音をたてたりしていましたが・・・

上の二つの器械は私が開業した当初から一緒に頑張ってきました。

いったい今まで何枚のレントゲンを現像してもらったのでしょうか?

お世話になりました。

Dscn0159 ピクト4システム、こちらは14年間使いました。

ピクト4システムは口腔内カメラの草分けでした。

まだデジタルカメラの無い時代・・・

画像を保管する媒体がフロッピーというところに時代を感じます。

ところでうれしかったのは、スタッフが最後にと器械と一緒に記念撮影をしていたことです。

そうそう、今まで本当によく働いてくれました。

それぞれの器械に心から感謝します。

ありがとうございました happy01

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ありがとうございました。感謝!!を参照しているブログ:

コメント

博史さんへ
1:本家と交流無しとか。一考すると兼幸で本家が途絶え、新納家が継ぐ、その時点で交流がなくなるのは、当然です。  18代兼護とありますが、兼亮は当主として認めていない説です。 1574年島津に臣従、75年兼寛開城、80年肝付城没収、86,87年秀吉九州の役、この時、肝付再興を願い出なかったか不思議です? 資料では、大隅領土を長曾我部元親に与える計画に、元親が固辞したようです

2:肝付城に行かれたことがないとか、城マニアの僕としては、ぜひ、ご家族でご先祖と邂逅してください。(ご先祖の功績を知ると人道に叛くこともないかと)国指定の史跡で、山城の状態をよく残しています。  ただ、杉林だけで、肝付城公園として、整備を関係者にお願いするだけです。  大隅国?の領民の憩いの場に、領民の力で早期実現を!!   本城川を渡ると道隆寺(有名な蘭渓道隆が建立、本当か?)があります。 ちなみに、肝付兼太さんは、城建設に寄付をお願いされたとか

3:家紋は、「高山郷史誌」で博史さんの家紋を拝見しました。戦国時代の家紋と違い、歴史を感じます。武士の家紋というより、朝廷の家紋の感じです。鎌倉の鶴岡八幡宮の社家は、鶴の丸で、大伴氏です。

4:天智天皇系は、知識がありません。天皇家の氏神は、伊勢神宮ですが、博史さんの氏神は、多いですね。僕の家の氏神は、城近くに祠があるだけです。歴史の古い家には、家伝の慣習、作法とか、今もありそうですね。
5:「神武即位前記、天皇は道臣命(ミチノオミノミコト、大伴家遠祖)に命じ、大来目らを率い、国見丘のヤソタケルの残党を討伐させる。道臣命は忍坂に大室を作り酒宴を催し、酒に酔ったヤソタケルの残党を来目部に斬殺させる。」大来目は、家来だったのか?それが大伴氏の守護神(僕の知識では、いまいち理解できず)。
国見丘とは、肝付城辺りかもしれません。つまり、肝付の地から神武天皇の東征に共し、王権で大伴氏の姓を賜り、大宰府に赴任し、薩摩国に伴兼行が赴任し、島津荘の荘官に兼貞がなり、その子兼俊が肝付郡を領土とした。1600年かけて故郷に帰省したことになります。
僕の頭の中で、肝付氏がはっきりしました!!たいへん感謝いたします!!
博史さんのご先祖の働きには、ただ頭が下がります。後もブログをのぞきます。歯科医師としてご活躍されますように!!
ちなみに、佐伯真魚(空海)も一族とは、空海はもっとも尊敬している僧です。

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