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2010年7月 9日 (金)

寿明院稲荷神社

鹿児島県鹿屋市、安心・安全・快適な歯科医療空間づくりを目指す安楽歯科院長ブログ「夢があるから・・・ v(^0^)v」へようこそ!

昨日の書き込みの続き・・・

寿明院稲荷神社についてちょっと調べてみました。

Dscn0130 お昼休みに改めて行ってきました。今は小さいお稲荷さんです。

私が住んでいる寿町のあたりは、昭和初期までは寿明院という小字名だったそうです。

この後はサイト「高隈から 大隅半島まるかじりっ!!」さんからの受け売りですが・・・(http://keyakku.blog.ocn.ne.jp/port/cat1739788/index.html

昔はどうやら「寿明院○○寺」という大きなお寺があったと言われているそうです。

残念ながら名前は伝わっていません。

しかしその敷地は現在の寿小学校付近を中心に、ダイソーさんの北まで広がっていたというので、大伽藍です。

Koojuih 寿小学校、この写真以上の範囲にお寺があったことに・・・

寿明院稲荷神社はその敷地内ということになります。

(ちなみに私の家も敷地内みたいです・・・)

また稲荷神社の裏手にある石塔には、慶安5年(1652年)や寛政5年(1793年)の文字が刻まれているそうなので、少なくとも360年近く前には、何らかの神社仏閣があったと思われます。

Dscn0128_2一番左の石塔に昔、靴とか隠して遊んでいました・・・(汗)

すると昨日切られた木も樹齢400年くらい・・・

あ~、つくづくもったいなく思えてきました despair

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寿明院稲荷神社を参照しているブログ:

コメント

肝付人さんこんばんは、コメントありがとうございました。
こんなゆるいブログにはふさわしくないコメントなので直接お返事さしあげたかったのですが、ここで返答させていただきます。
確かに当家は伴性安楽家の本家です。
このことは当家に伝わる系図のとおり、21代が江戸城改修のために島津氏より発行された手形や、24代が小番家に列せられたときのお墨付きが当家に現存することより間違いないと思います。
(ちなみに今は両資料は黎明館にあります。)
私は36代にあたりますが、実は34代の祖父まではしっかりとその他の資料も保管していたのですが、35代にあたる父が早世したこともあり、現在はそのままになってしまっています。
系図の加筆など後々のために早く整理しなくてはと思いつつもまだそのままでして・・・
私もまだ日常に追われて生活しているようなものでして、なかなか手付かずです。
そのような状況ですので、当家以外のことはあまり知りません。
ご質問の1ですが、そのようなものはありません。
2につきましてもまったく存じ上げません。
お役に立てず本当に申し訳ございません。
すでにご存知かもしれませんが、鹿屋には「大隅史談会」という郷土史の研究会があります。
そこでお尋ねになったら、何か手がかりになるものがあるかもしれません。
せっかくコメントいただいたのに、こんな返答でごめんなさい。
季節がらお体ご自愛ください。
肝付人さんのご活躍を祈念して、とりいそぎお返事させていただきます。

ひとつ書き忘れておりましたが、
安楽家には平性救仁院氏系統の平性安楽家と、伴性肝付氏初代兼俊の三弟俊貞を初代とする伴性安楽家があります。
志布志城は平性安楽家によるもので、当家とは関係ありません。
両家は一時同時に志布志の安楽にいたようですが、争うことはなく、むしろ姻戚関係を結んでいたようです。
救仁院氏滅亡にともない、平性安楽家は次第に姿を消し、変わって当家の先祖が安楽を領してしたようです。
何かの参考になれば・・・

お忙しい中、早速、コメントありがとうございます。
いままで、疑問に思っていたことが解決するとうれしいものです。また、一族の博史様だからこそ知る情報は、大変勉強になります。 お暇なとき、下記の質問にコメントください。

1:ご存知かと思いますが、なぜ、検見崎氏の質問をしたかと言うと、初代肝付兼俊の4男?兼友に、肝付町の検見崎を領地に与え、肝付本家が20代で途絶え、血族ではない新納氏が肝付本家を継ぎ、その後、血族の検見崎氏が肝付本家を継いだということで、今も肝付本家は、存続していると思いますが、肝付本家と交流はあるのでしょうか?

前期の兼道は、島津家の分家の新納家から安楽家に養子として入り、肝付氏とは、血族関係は無いようです。

2:肝付本家の家紋は、対の鶴ですが、(前期喜入肝付氏出身の兼行の家紋は一羽の鶴でした。やはり、本家に遠慮したのか?)安楽家の家紋は、やはり、鶴でしょうか?

3:肝付城には、大伴氏の守護神、大来目命を祭る神社がありますが、{大来目命}とは、どういう神様か、ご存知なら教えてください? 僕は2回急な階段を登りましが、  博史様は、参拝に行かれたことがありますか?

大隅史談会の鴨着く島おおすみ様のブログは、拝見しています。あのボリュームと内容には頭がさがります。文面から学校の教諭かなと推察していますが、どうなんでしょか? 今のところ僕は肝付氏と肝付町だけを調査中です。

初めまして 自分のルーツが知りたくて ググったところ こちらのサイトにたどりつきました。私は今 京都に住んでいます。父がおばあちゃんのお腹に居る時に丁度戦争が始まり お祖父さんが戦死した為実家の京都に帰って来たみたいです。お祖父さんの兄弟が 鹿児島の国分に住んでいるそうです。父親は曾祖父が安楽兼道と言っていました。家紋は向かい鶴です。なにかルーツをご存知でしょうか?

安楽さん、こんばんは(なんか違和感 笑)
系図を見てみたのですが、安楽兼道なる人物の記載はありませんでした。
ごめんなさい。
でも安楽で兼という字がついているし、
家紋もうちと同じ向かい鶴なので、どこかでつながっているのだと思います。
ルーツがわかるといいですね!
今回はお役に立てず申し訳ありません。

お忙しいところ、ありがとうございました。安楽兼道の名前は元警視総監と聞いていたので ネットですぐ出ました(笑)でも安楽家に養子に入った様です。父親の名前に兼はついていませんが 唯一の連絡がつく はとこには兼がついてました。現在父親が行方不明(笑)なので 祖母が亡くなった時、お祖父さんと一緒にしてあげようと 鹿児島まで納骨しに行きました。その時 神主さんがいらっしゃり 安楽家は神徒なんだと 初めて知りました。はとこと20年ぶりに 話し 安楽家のルーツに興味を持ちました。一応 城があったらしく城跡には小学校が建っているそうです。安楽姓は珍しいのですぐ解るかと思ったのですが 甘かったです。鹿児島に安楽さんは結構いらっしゃるのですね。諦めず頑張って調べていきますね。また 何かありましたら コメント致します。

初めまして 安楽と申します。

私も、自分の氏名のルーツが知りたく調べていたことろ、このサイトを知りました。

私の名前に「兼」が付きます。父親も祖父も曾祖父も兼が付いています。

本籍は、鹿児島の国分です。

亡くなった父親から、「安楽家の男子には、名前に兼が付くから、必ず続ける様に」と言われ、私も息子達にも兼を付けています。

昔の戸籍の青写真?が残っており、明治時代の戸籍の籍族の欄に「士族」と書いています。

勝手に、戦国時代の安楽氏の子孫なんかな?と思っていたのですか、こちらのサイトを拝見すると違うみたいですね。私の家紋は三つ雁金ですし

何か、ルーツをご存知でしたら教えて下さい。

安楽様、おはようございます。
コメントありがとうございます。
 
ご存じかと思いますが、
大隅の戦国大名である肝付氏は多くの方が名前に兼の字を使用しています。
(大元はそのルーツとされる伴氏からです)
肝付氏初代兼俊の3弟俊貞を初代とする「伴性安楽家」にしても同じことです。
ちなみに36代の私には兼はついていませんが、
父にはついていました。
息子にもつけました(笑)

家紋が三つ雁金であれば、やはりどこかでつながっていらっしゃるのだと思います。
こちらのサイトをご覧ください。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kimo_k.html
30代以上家系が続けばその子孫の数は莫大なものになるはずです。
ですので同じ祖先である可能性はかなりあるのではないでしょうか!

コメント、とても嬉しかったです。
取り急ぎご返答させていただきます。

はじめまして。
私は安楽姓ではありませんが、亡くなった祖母が安楽家から嫁入りした人でした。
おばあちゃん子として育った私は祖母についてもっと知りたいと思いました。
戸籍を調べたところ、鹿児島の加治木が本籍でした。
また、その戸籍で最も年配の方は安楽小左衛門という名で「兼」が付きません。
江戸時代末期に生きた人のようでした。
ところが最近ネット検索で「関ヶ原合戦感状」を知り「三十石の安楽兼雅」(博史様の御祖先ですね)
と共に「関ヶ原から住吉まで義弘に従った者たちの中」に安楽小左衛門の名があるのに気がつきました。
推察で確証はありませんが、安楽小左衛門は関ヶ原合戦後にそのまま義弘公と共に加治木に移住し、
その子孫は代々世襲名として小左衛門を名乗ったのかな?と思ったりしました。

博史様。突然メールしてしまい、誠に申し訳ないのですが。お伺いしたいことがあります。
安楽兼雅は安楽兼寛から何代後のご当主ですか?
分家などに小左衛門なる者がいたか何かご存じないですか?全く別の安楽でしょうか?
また戸籍から先はこの様に推察になってしまい、どうやって調べればよいのでしょうか?

私は関東に住んでおり、なかなか鹿児島には行かれず手段はネットと国会図書館くらいです。
ご指導のほど、何卒宜しくお願い申し上げます。

こちらは志布志市ですが皆さんとつながりあるのですか、じい様は都城市から志布志市に昔来たらしいです、誰、近くに原点を知ってる

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