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先日、今年度第3回目の「3歳児のむし歯なくし隊」の協議会に参加してきました。
私の所属する「スイートハーツ」チーム、作業中です。
3ヵ年計画のこの事業も期間的にはちょうど半分。
いよいよそれぞれの事業がスタートです。
事業報告をする「検診1・2・3」チームのN原先生。
具体的には「乳幼児のワンコイン健診」や「歯みがきカレンダー」などの事業です。
「仕上げ隊」チームは歯みがきカレンダーの報告
また10月31日の「鹿屋市健康祭り」や11月6日の鹿屋市歯科医師会「歯っぴいスタンプラリー」で、啓発事業を開催します。
お暇な方はぜひご来場ください。
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3歳児のむし歯なくし隊 活動報告を参照しているブログ:
肝付兼続は、一族の岸良蔵人兼元(1566年高山城にて戦死)の弟、安楽備前守兼寛に牛根城を守らせた。先生の血筋は安楽三郎俊貞ではなく、初代岸良兼基の血筋となるのでしょうか?もし、ご存知なら教えてください。 現在もいろいろ調査中ですが、不明なことだらけで、閉口しています。
投稿: 肝付人 | 2010年10月15日 (金) 02:05
先生の前のコメントで『梅北家初代は、安楽4代兼俊の息子であるといったような』の記述がありましたが、4代安楽兼俊には、5代?長男?兼高の名前がありますが、6代兼祐ーー、この兼高が初代梅北兼高となったのでしょうか?
安楽兼貞の長男に兼俊、2男に兼幸がいて、この兼幸が、北原兼命の養子となり、北原兼幸として1345年、真幸院に初代として飯野城に入部。しかし、いろいろ年代を計算してみると、どうもしても年代が不合理となり、疑問、不明です。先生の家系図には、兼貞の子に2男兼幸は、存在するのでしょうか?
資料では、3代救仁郷兼延が北原兼命と同一人物とありますが、この説では、時代考証で不合理となるようで、先生の感では、初代安楽俊貞が生存した時代は、何年ぐらいになるのでしょうか?分かる範囲でよいので、ぜひ、教えてください!! _(._.)_
投稿: 肝付人 | 2010年10月18日 (月) 10:13
肝付人さん、続いて以前書きかけたコメントを続けます。
前にご質問のあった、安楽備前守兼寛についてです。 兼寛は当家の20代となります。19代大和守兼際との関係については系図には記載されていません。 兼寛の嫡子左源太が当家21代兼致となっているので、そういった意味では岸良氏の血筋ともいえるのかもしれませんね。そんなこと考えたこともありませんでした。 21代以降、安楽家は垂水島津家に仕えて現在までいたります。 ちなみにこの兼致は、徳川2代将軍秀忠の江戸城普請工事の際に、島津家よりの献上品の竹・柱などの運上宰領の奉行をおおせつかり、その際の通行手形が当家に残されており、この種の公文書で現存しているものは希少として、現在は黎明館に保管しています。
いつも書かせていただくのですが、私は郷土史の専門家ではないので、わからないことだらけです。 いつも系図をひもときながら、お答えしている次第です。 あまりお役にたてなくて申し訳ありません。
投稿: 院長 | 2010年11月27日 (土) 07:57
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肝付兼続は、一族の岸良蔵人兼元(1566年高山城にて戦死)の弟、安楽備前守兼寛に牛根城を守らせた。先生の血筋は安楽三郎俊貞ではなく、初代岸良兼基の血筋となるのでしょうか?もし、ご存知なら教えてください。
現在もいろいろ調査中ですが、不明なことだらけで、閉口しています。
投稿: 肝付人 | 2010年10月15日 (金) 02:05
先生の前のコメントで『梅北家初代は、安楽4代兼俊の息子であるといったような』の記述がありましたが、4代安楽兼俊には、5代?長男?兼高の名前がありますが、6代兼祐ーー、この兼高が初代梅北兼高となったのでしょうか?
安楽兼貞の長男に兼俊、2男に兼幸がいて、この兼幸が、北原兼命の養子となり、北原兼幸として1345年、真幸院に初代として飯野城に入部。しかし、いろいろ年代を計算してみると、どうもしても年代が不合理となり、疑問、不明です。先生の家系図には、兼貞の子に2男兼幸は、存在するのでしょうか?
資料では、3代救仁郷兼延が北原兼命と同一人物とありますが、この説では、時代考証で不合理となるようで、先生の感では、初代安楽俊貞が生存した時代は、何年ぐらいになるのでしょうか?分かる範囲でよいので、ぜひ、教えてください!! _(._.)_
投稿: 肝付人 | 2010年10月18日 (月) 10:13
肝付人さん、続いて以前書きかけたコメントを続けます。
前にご質問のあった、安楽備前守兼寛についてです。
兼寛は当家の20代となります。19代大和守兼際との関係については系図には記載されていません。
兼寛の嫡子左源太が当家21代兼致となっているので、そういった意味では岸良氏の血筋ともいえるのかもしれませんね。そんなこと考えたこともありませんでした。
21代以降、安楽家は垂水島津家に仕えて現在までいたります。
ちなみにこの兼致は、徳川2代将軍秀忠の江戸城普請工事の際に、島津家よりの献上品の竹・柱などの運上宰領の奉行をおおせつかり、その際の通行手形が当家に残されており、この種の公文書で現存しているものは希少として、現在は黎明館に保管しています。
いつも書かせていただくのですが、私は郷土史の専門家ではないので、わからないことだらけです。
いつも系図をひもときながら、お答えしている次第です。
あまりお役にたてなくて申し訳ありません。
投稿: 院長 | 2010年11月27日 (土) 07:57