私は1歳から大隅半島に住んでいます。
小学校入学くらいのころまで、垂水から鹿児島へのフェリーはなく、いわゆる渡し舟(ポンポン船)でした。
そのころは「あかね丸」とか数隻の船が走っていました。
客室は階段を階段を昇っての1等や露天、階段を降りて薄暗い船倉にあったのを記憶しています。
戦争中にこの路線の船が沈没して多くの方が亡くなった話は、子供のころ親から聞いて知っていました。
それが65年前の今日だったそうです。
今年は33年ぶりに合同慰霊祭が開かれるとのこと・・・
それにあわせて、新聞各紙で報道がなされていて、初めて事件の詳細を知りました・・・
当時10.5往復していたこの路線は、戦争の激化に伴い船も徴用され4往復に減っていたそうです。
それに伴い臨時の措置として、定員340名のところ700名とされていたとのこと。
事故のあった昭和19年2月6日は、鹿児島にある陸軍部隊の面会日とのことで、大隅半島各地より乗客が殺到・・・
第六垂水丸には700名を超えて乗船(一説には738名とか言われるが真相はわからない)
船長は安全な航行に危惧を感じて、出航を拒否しましたが、居合わせた軍属や日本刀で威嚇する軍人の要請により結局出航・・・
200メートルほど桟橋より後進して、方向転換をしようとしたときにバランスを崩し転覆したそうです。
港の目の前で起きた惨劇に、垂水の住民は総出で必死の救助活動をおこなったそうです。
犠牲者は466名。
戦争中ということもあり、報道は新聞に数行だったそうです。
時代の悲劇でしょうか。悲しい出来事です。
決して風化させてはならない事件だと思います。
今回は戦争とメディアを研究する東海大学の准教授の研究がきっかけで、この出来事を記録・伝承していこうという気運が高まり、合同慰霊祭の運びとなったそうです。
心より、犠牲となられた方のご冥福をお祈りいたします。
合掌。
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